きずなへ
社団法人日本自閉症協会奈良県支部ニュース絆2000年2月4日第25号より
「喜怒哀楽のある人生」
奈良支部会員
大阪市立大学生活科学部助教授
堀 智晴
はじめに
「大人になる」ということはどういうことなのだろうか。
新聞に、「自分で考える大人になろう」(朝日新聞)という社説が書かれた。そこには「大人になるということは、自分の頭を使って、自分で判断することだ」と書かれていた。自閉症といわれてきた子供たちも20歳を過ぎれば、ひとりの大人として生きていくことになる。
親をはじめ周りの人たちにも、彼らをひとりの大人として接することが求められる。
別々の成人式
1月15日を待たずに知的障害者の成人式が行われたという新聞の記事を読んだ。まだ障害者だけの成人式が行われているのだ。残念なことだと私は思う。なぜ成人しても別々なのだろうか。
現在の社会はまだ障害者をひとりの市民として受け入れてくれないという判断が主催者にあったのだろうか。仲間だけのお祝いをしたいということであれば、それもいいと思う
のだが。
私が自閉症の人と触れ合い始めて、もう20年になる.保育所で出会った子供たちも大人になった。その中でも「自閉症」といわれてきた人たちの何人かは学校卒業後に、施設に入所している。障害があってもひとりの人間として、地域で一緒に生きていこう、そう考えて共に生きる保育・教育は取り組まれてきたはずであった。しかし、学校を卒業した後の現実の生活は大変厳しい。親が年をとり、子供が成人した後も、地域で生活し、地域で働き、生きがいのある生活をしていける場はまだ本当に少ない。障害のある人も地域で一市民として生きていこうという、ノーマライゼーションの考え方が日本の社会にも浸透し始め、通勤寮やグループホームなどが出来てきたのは、まだ最近のことである。
控えめな支援
各地からのレポートを読むと、自閉症といわれる人々の生活を大切にしようとすれば、周りからの支援がいかに重要で必要かということが分る。周りの人の理解と共に具体的な 支援が欠かせないのである。人とのコミュニケーションがうまくいかないことの多い、自閉症といわれる人々にとって、いろいろな人との出会いの中でこそ、コミュニケーションの方法も身につけ、そのことによって生きがいになるような楽しい経験もつらい経験もできるのである。
グループホームの世話人、作業所の指導員、地域センターの職員、ガイドヘルパー、地域の散髪屋さん、喫茶店のマスター、あ風呂屋さん、酒屋さんなど、このような人々の支援があればこそ、地域での市民生活も可能になる。ガイドヘルパーの制度は就学の時期から保証される必要がある。自閉症といわれる子供たちの生活を見ていると、学校と家庭の生活に限定され、地域に出掛けていく機会がほとんどないからである。また、生活の質を豊かにするための活動をしている地域センターの報告があったが、このようなセンターも必要である。しかし、このような支援がお節介になることもある。支援と言われると断りにくい。支援があったらこそできた、というのは支援がなければできないという考えにつながりやすいのである。
支援は控えめであるに越したことはない。こう書くと現実認識が甘い、支援がなければ何もできないではないかと言われるだろうか。確かにこういう現状もある。しかし、私はあえて言いたいと思う。支援は「控えめな支援」である方が望ましいと。控えめになればなるほど本人に判断が求められることになり、本人が判断を下すようになるからである。しかし現在では、控えめでも支援はまだ必要である。
喜怒哀楽のある人生
喜怒哀楽のある人生こそ生きがいのある人生ではないか。この世に生を受けた以上、失敗を恐れずおもしろく人生を生きたいものだ。人の人生にプログラムはないのである。このことを私は強調しておきたいと思う。『たびだちの仲間の会』の月川さんは私にこう言った。「『あそこの作業所の人』ではダメだ。『あそこの作業所の月川さんという人だ』と名前で呼ばれるようでないと」。……どの人も自分の人生を持っているのだから、障害者として見られるのではなく、その人として見られるように生きていきたいのだ。初めに書いた朝日新聞の社説では新成人にこう訴えている。「みんなはそう言うけれど、本当にそうなのか、と問いつめ、考え抜いてゆくことが、新しい時代を切り開く第一歩になる。人間は誰でも、考える能力を持っているのだから、勇気をもって、この力を使おうではないか」と。
これまで自閉症と呼ばれてきた人たちにも、私は同じメッセージを贈りたい。自分で考え、喜怒哀楽のある人生を満喫しようではないか、と。
仕出し屋さんで働く小林一男さんは、山登りを楽しみにしている。原宿へ買い物に出掛ける餅田東真一さんがいる。自動車の部品工場で働く木村浩敏さんがいる。『やまびこ作業所』では、由紀さん、達也さん、光岳さん、好美さん、豊さん、誠さん、健さんたちが、小野さん、柏本さん、秋山さんらと働いている。背広を着て会社で働くことを夢見ている『あすなろ園』の中村克浩さんがいる.作業中の外出を散歩とみなしてくれる『あおぞらハウス』で働く関本まみえさんがいる。工作、登山、サイクリング、旅行など、さまざまな趣味を持つ深沢文雄さんがいる。園芸ショップで働いている松田哲さんは、宝くじを当てて花屋を開きたいという。一度は就職に失敗して死にたいと思ったという白木由佳子さんは、今、別の会社で朝8時から夕方4時30分までフルに働いている。ここには、一人ひとりその人の人生がある。人生はドラマだ。もうその一人ひとりに「自閉症の」という言葉はいらない。私は本書に出てくる自閉症という言葉のすべてに、一度墨を塗ってみたい。そして、私は最後にこう付け加えたい。もう大人になったんだから、自閉症という枕詞を付けずに、一人ひとり固有名詞で呼ぼう。「大人になった自閉症児」ではなく、「かって自閉症児といわれていた人たち」と考えたいのである。
(「続大人になった自閉症児」朝日新聞厚生文化事業団 より抜粋)
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